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【読書メモ①】苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』

【読書メモ】では,へんぷくが読んだ本について備忘録がてら,内容を整理しています。まとめの正確性については保証しませんが,もし良ければ参考にして下さい。

 

 

ここの所,生活がドタバタし過ぎていてブログが更新できていませんでした(気力が無いのもありますが)。本当は教員採用試験の集団討論・個人面接対策についても書いていきたい所なのですが,なんだか書く気にならないまま日が過ぎてしまいました。

 

一方で,読んだ本についてきちんと自分の言葉でまとめていきたいな~,という気持ちもあったので,今回はそちらの方向性でいこうと思います。記念すべき第一回目は,苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書,1995)です。

 

大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)

 

へんぷく自身は,大学時代のとある授業を通して苅谷先生の議論を学びました。それ以降,自分の(教育議論を中心とした)思考に大きな影響を与えています。もちろんこれからも大きな影響を与えることは間違いないです。今回紹介する『大衆教育社会のゆくえ』は,苅谷先生が世に出した本の中で初期(1995)のものです。新書はこれが一番最初だったはずです。以下,本書の内容をまとめていきます。

 

概要

この本では,「教育をめぐる議論の閉塞状況から抜け出るために……私たちの教育の論じ方そのものの成立を議論の対象に据えてみる」と同時に,「戦後日本社会の形成と変容を,教育という窓口から比較社会学という方法を用いて捉え直そうという試み」を行っています。具体的には,「平等な社会という通念が行き渡った戦後日本社会が,どのように成立したのか。教育の拡大を肯定し推進してきた社会は,どのような特徴を持っていたか」(以上,本書220頁)について明らかにしています。

 

日本に「教育と階層」の問題は存在するか?

最初に本書では,(教育社会学の先行研究と苅谷先生自身の研究を基礎にしながら)この問いに答えていきます。

まず戦争直後の日本(1950年代頃)は,家庭の貧困が目に見えて存在する社会で,貧困(家庭環境)と学業成績といった「教育と貧困」(あるいは「教育と階層」)の問題も大きく取り上げられていました。

しかし,1960年代・70年代に入るとこの「教育と階層」の問題は取り上げられなくなります。これは日本の高度経済成長に重なります。すなわち,この「教育と階層」の問題が無くなったわけではなくとも,「一部の少数者の問題にとどまっているという見方」(38頁)が主流になっていくのです。

一方,イギリスやアメリカにおいては,人種の違い,労働者階級―ミドルクラスといった「目に見える」階級が存在しており,現在に至るまで「教育と階層」は「教育を巡る議論のひとつの中心点を確保」(40頁)になっています。

 

それでは,貧困問題が縮小したのに応じて本当に「教育と階層」の問題は日本から消滅したのか。

 

この問いに対して,苅谷先生は「NO」と答えます。

 

75頁以下,「家庭の収入」と「学校成績」,「親の職業」と「学歴」,「両親の学歴」と「高等教育進学率」等様々な側面で「教育」と「階層」の関連性がみられていることが示されています。詳しくは実際に読んで確認して欲しいですが,自分自身が教育を受ける過程でつくり上げた「教育観」が揺さぶられる思いがします(あるいは,今まで感じてきたモヤモヤとしたものが明確になる気持ちがします)

 

なぜ「教育と階層」に関する議論は消滅したのか?

日本では1950年代から現在に至るまで,実際は「教育と階層」の問題が居座り続けているという事実が分かった所で,今度はなぜ研究者含め人々は「教育と階層」の問題を取り上げなくなったのか,という話に移っていきます。

苅谷先生は,本書のタイトルともなっている「大衆教育社会」というものの成立にその解を求めます。

苅谷先生によれば,大衆教育社会とは「たんに教育が量的に拡大した社会」ではなく,教育の『大衆的』な拡大が,『大衆的な』社会の編成と密接にむすびついた,大衆社会状態にある社会のこと」(105頁)です。

日本では,その大衆教育社会の成立が「学歴社会」の成立と共に生じます。「学歴社会」の中身は,一般的に受け入れられている通りです。ここでまずポイントとなるのは,「人々の意識を離れて,『客観的』に測定すれば,日本もイギリスもアメリカも,ある程度『学歴社会』の側面をもって」いる点です。さらには,「日本だけが他の社会に比べて,『生まれ』の影響を薄めるほど,教育による『生まれ変わり』の力が強いわけでもない」(118頁)とされている点です。

しかし日本においては人々が強く感じているように,良くも悪くも「学歴」が重要視され,批判され,議論になります。その理由を苅谷先生はこう表現します。

 

「試験」という,一見,公平無比な選抜装置によって,生まれの刻印を消去できる社会…(中略)…学歴社会という認識は,「生まれ変われるものなら生まれ変わりたい」という人びとの願望を強化し,その願いを教育へ,学校へと水路づけするイデオロギーとして作用したのである。(121頁)

 

そのため日本の学歴社会をめぐる議論は,学歴獲得に至る過程に家庭環境といった階層が影響しているという点ではなく,学歴を獲得した「後」に集中していきます。例えば,「試験勉強が出来たところで,その人の『実力』そのものを表すわけではない」,「受験教育は『役に立たない』知識を『暗記』すること」(141頁)といった具合に。

ところが,このような批判が広まれば広まるほど,「人びとは学歴の価値を再認識し,より高い学歴を求めて行動するように」なります。「学歴社会の欠陥を明らかにした言説が,結果的に学歴社会を補強」していきます(131頁)。

そのような「知識を『暗記』」して受験に成功すれば学歴が得られる,という学歴社会の認識が広まることは,学歴社会においては教育機会が制度的に全ての人に開かれていることを表すと同時に,「どのような出身階層の者にとっても,努力しさえすれば受験で成功し,高い学歴を得,それによって社会的に『生まれ変われる』チャンスが等しく開かれていることを強調する」(141頁)ことを表します。全ての人を「平等に開かれた」教育競争に巻き込んでいく,「大衆教育社会」が(高度経済成長期を迎えた)産業の高度化と同時に成立します。量的にも1960年代以降一気に高校進学率,大学進学率は上昇し,高度化する産業へ人材を送り込むことになりました。

 

ここで,ようやく「なぜ『教育と階層』に関する議論は消滅したのか?」という問いの答えにたどり着くことができます。

以上のような大衆教育社会の成立は,学歴取得後の学歴による差別対する批判(「○○大学を出た人間が優遇されている」=「○○大学に受かったからといって必ずしも『実力』があるわけではない」)を生んだとしても,その学歴を得るまでの過程にあるものは雲隠れさせてしまいます(もっとも苅谷先生はそう単純な問題では無いとして,学歴を得られなかった人びとによる学歴による差別の批判も理由として挙げています)。「すべての人は開かれた教育競争に参加している」——このような「機会の平等」観が人びとの間で共有されることにより,「教育と階層」の議論は日本の社会から姿を消したのです。

 

受験知識への接近は,どんな家庭に生まれても,本人の努力や塾,家庭教師などの学校外の教育によって,十分に可能になる。受験競争さえ勝ち抜けば,だれにでも学歴エリートになる道が開かれている。学歴社会という社会認識は,学校での成功が,ある特定の階層出身者に有利に出来上がっているという見方を退けるのである。(150頁)

 

差別「感」を与える教育

苅谷先生は,以上のように日本で大衆教育社会が成立する一方で,教育現場では生徒に差別「感」を与えるような教育方法,例えば習熟度(能力)別のクラス分け等が批判にさらされてきたと指摘します。

あえて差別「感」と表現されるのは,少なくとも欧米で問題とされる「差別」と意味合いが異なるからです。欧米では人種,階級,民族,性別等といった「社会的カテゴリー」の差異に基づく不当な取り扱いを「差別」という(157頁)のに対して,日本の教育においては個人の能力差や成績の違い自体を「差別」とみなしていました(=能力主義教育批判)(159頁)。

その背景には,「だれでもがんばれば,『一〇〇点』をとれる。」という考え方,すなわち「成績の差を,生まれながらの能力の違いとして固定的に見るのではなく,生徒の努力やがんばりによって変わりうるものと見る」(182頁)考え方がありました。このような日本独特の平等観が習熟度別クラスをも「差別的」であるとみなしたのです。逆に言えば,このような差別「感」を生み出さない教育が平等な教育であるとされ,画一的な教育が目指されるようになりました。

画一的な教育は画一的な評価規準の適用を促し,(形式的に)公平な選抜を行う基盤をつくります(192頁)。誰もが参加出来る,形式的な平等が保証された選抜を受け入れることにより,その後に生まれる結果の不平等が正当化されます。日本独特の平等観がここに生まれることになりました。

そして,この選抜の「正当化」は結果として,先にもみた,実際の所は存在していた階層の問題に蓋をして,大衆教育社会の成立に貢献したのです(194頁)。

 

教育をめぐる神話

既に見たように,日本では大衆教育社会の成立の陰で,「教育と階層」の問題は現実には残っていたにも関わらず,忘れ去られていきました。その背景には「学歴社会」「能力主義教育批判(=日本特有の平等観の形成)」といった教育界の議論も存在しました。そのことを踏まえた上で,教育に関する議論全般を苅谷先生はこう総括します。

 

教育をめぐる議論には共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し,そこから現状を批判する。批判そのものにはだれも異論はない。前提となるあるべき教育の理想には,だれも正面からは反対できない崇高なーー抽象的なーー価値が含まれている。一方,そうした教育の理想を掲げていれば,現実的な問題をどう解決するか,その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも,私達は教育について多くを語ることができる。(215頁)

 

と述べ,教育の世界は「理想」を背景として,根拠の存在しない様々な「神話」に満ち溢れていると指摘します。

その上で,

 

教育に何ができるのかを考えるのではなく,何ができないかを考えること。

教育に何を期待すべきかではなく,何を期待してはいけないかを論じること。

 

が私達が教育を議論していく上で不可欠であると苅谷先生は述べています。決して教育は全てを解決してくれる万能薬というわけではなく,また「理想」を追い求めるだけでつくり上げることはできないということは,この本が出版されて20年以上経った現在の私達においても肝に銘じておく必要があります。

 

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以上,ここまで『大衆教育社会のゆくえ』の各所を引用しながら,つまみ食いしてきました。おそらく自分は正確にまとめられていないと思う(そもそもまとめたにしては引用が多すぎるし,分量も多すぎる)ので,とにかく読んで手に取って読んでもらうと良いかと思います。概念の説明等,多少難しい部分もありますが,半日もあれば読み切れる分量です。先にも述べた通り,既にこの本は出版されて20年以上経つのに,今の私達に強く訴えかけるものがあります。新学習指導要領,新大学入試……目まぐるしく様々な「理想」が掲げられ,急速に教育改革が進められている中で,今一度この本での議論に立ち返る必要性をへんぷくは感じています。

 

それでは今回はここまでです。

読んで下さりありがとうございました。